「日常的」や「普通」の範疇に収められてしまったすべての概念の中に隔たりの種があり、発火する。「日常的」に「普通」に生きているすべての人が無自覚にその種を守り、育てている。 #怪物
普通や日常の危うさに気づくことは簡単じゃないけど、坂元さんはその毒気に、というか可笑しさにも、切なさにも繊細で、日常の解像度が異様に高いから、脚本の中で僕ら大衆にするりと魔法をかけられる。またやられた、という少しの悔しさと最大限の敬意と尊敬を。
日常を解像度高く見る力って、複雑性に耐える力と言い換えることもできる。人間はさまざまな複雑を自分の知っているものに解釈して、慣れて、いずれ見えなくなってしまうものだけど(それがある種大人になるということだけど)多くの問題は単純じゃないし、複雑性を耐えて超えないと辿り着かない
イベント業界にいると「分かりやすくするほど売れる」という単純な構造に気づいてくる。そして興行的な成立をさせている多くの企業や個人はそれに倣う。だから複雑性を超える想像力が社会に必要なんだと、そういう作品ばかりつくっていると驚くほど業界と、社会ともあまり接地しない。
まぁそれは当たり前で、情報過多な現代において分かりやすい入口を作らないことは看板を出さない商店みたいなものだ。ただその先。安心のハッピーエンド、聞き慣れた美辞麗句、入口から終わりまで飲み込みやすい豆腐みたいにする必要はないと思うんです。
それはクリエイターの敗北だと思う。マーケットに飲まれ、好物だけを差し出していればマーケットは喜ぶけど、真の健康を考えたら好きじゃないものもつくらなきゃ。ハンバーグばっかつくってないで、ピーマンで料理しようよ、虫を使ってみようよ、なんて日々作り続けながら思っている中で
「怪物」のような作品が世に出て評価されていることが嬉しいし、プロデュース能力さえあればこういったことができるのだと勇気づけられたりもする。まだまだ力がないことを実感したりもする。