「南京大虐殺は自分たちがやった」ー ある中国人の告白文 2012/1/27に、開国少将というペンネームの作者が「南京大虐殺は自分たちがやった」というタイトルで、外祖父が自分の目で見た南京大虐殺という文章を発表した。 「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた理由ではないだろう。私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。 彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、 1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。 部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。 誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。 国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。 外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があったという。 外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。 私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい。」 note.com/piyococcochan/…
@piyococcochan2 これは私のフレンドさんが叔父から聞いた実話です👇 ●● 様。 私の叔父が、一番乗りで南京攻略した部隊でした。 国民党軍も便衣兵ももぬけの殻。 街には死体が転がっていましたが、そんな光景は支那の街の当たり前の状況でした。 国民党軍が市民を虐殺し、戦後日本に擦り付けたのが真実ですね。
@piyococcochan2 南京大虐殺の事実を話してくれて、感謝いたします。 今までそれを話せなかったこと、さぞや苦しかったことだと思います。
@piyococcochan2 これが事実だとしたら … たぶん事実なのでしょうが、許されざる事ですねぇ 〜 直感ですが、やりそうな事と納得してしまった。
@piyococcochan2 むか~し、昔、「朝生」に出演した元日本軍の兵隊さんが「南京に入場した時に足に鎖をつけられたままシナの兵隊がたくさん死んでいた。俺はシナ兵じゃなくて良かった」と言っとった。 その時、出演していた御左様女性群は聞いてないフリ。
@piyococcochan2 うちの日露戦争で足に銃弾受けた爺さんは、もっとのほほんとした話だった。 満州(南京)で何もなかった。 ソーダ水(重炭酸曹達)を日本人が南京の人に伝えた。 満州であった若き日の李香蘭は綺麗だった。ぐらい。 何かあったのは民族同士の争い。
@piyococcochan2 この事実を、両方の国が正しく認識し、歴史の教科書を正さないと、未来が開けないような気がします。